SanDragon

明智光秀は実は生き延びていた!?

2020年大河ドラマの「麒麟がくる」で大人気の明智光秀。

歴史では織田信長を殺害した本能寺の変の後に、豊臣秀吉によって殺されたのは知っての通りですが、そんな光秀には生存説があったのはご存知でしょうか?
「そんな馬鹿な」と思う人もいるかと思いますが、調べてみるとこれ、あながち馬鹿にできるような事でもないんですよね。
生存説とはどういう事か。
それについて説明していきたいと思います。

明智光秀は「南光坊天海」という僧となり、あの徳川家康に仕えた。

生き延びた光秀は「南光坊天海」という名に変えて僧となり、徳川家康に仕えたという説があります。
この天海、僧ではありますが役割はそれだけではなく、朝廷との交渉をしたり、また参謀的な役割をしたりなど、徳川家康の元でかなりの活躍をし、家康からも重宝されていました。また家康だけでなく、二代3代の将軍である、秀忠と家光にも影響を及ぼしたとされています。
天海の出自は謎に包まれていますが、その余命は100歳を超えたと言われており、一部では妖怪扱いされていた程です。
まあ当時の平均寿命は32~44歳であったとされていますから、人外の者とみなされても仕方ないかもしれませんが…



日光東照宮、日光市に残る明智との関り

証拠はいくつかありますが、最も有名なのは日光東照宮にある像に明智の家紋が使われている事です。
日光東照宮と言えば、かの徳川家康を神格化して祀っている、徳川家ゆかりの神社です。それなのになぜここに明智の家紋が使われているのか?
それ程に天海が徳川家に重宝されていたからかもしれませんが、「明智の家紋」というのがひっかかりますよね。
また日光東照宮のある栃木県日光市には、「明智平」という名前の地域があるのですが、これを名付けたのは天海なのです。では何故この名前にしたのか?

それは一説によると、「明智の名前を残したかったから」だそうです。

怪しいですよね。

徳川家康は明智光秀を尊敬していた?

徳川家康は実は明智光秀をとても尊敬していたと言われています。

家康の家臣に水野勝成という男がいるのですが、家康はこの勝成に、「明智光秀に倣って行動するように」との指示を出し、家臣に光秀の行動を参考にするように命じています。
つまり家康は光秀の事を尊敬し、見本にさせていたという事なのですが、家康は何故ここまで光秀の事を尊敬していたのでしょうか?
実はこれには本能寺の変が関係していると言われています。

本能寺の変の黒幕が誰なのかは現在でもはっきりしていませんが、この黒幕の候補に家康もその名前を連ねています。
もし、本能寺で光秀が織田信長を殺害しなかったら後の世はどうなっていたでしょうか?家康は天下人になれたでしょうか?

その答えは分かりませんが、信長がいる限り、家康は天下人にはなれなかった可能性もあります。そのため、信長を殺害した光秀に恩義を感じ、一般的には秀吉に殺された事としておいて、その実、自分の側近に加えたという事です。
こういった経緯があるからか、家康と天海は、初めて会った時に4時間、話し込んでいたという言い伝えがあります。
周りの人の中には、家康と天海は旧知の間柄みたいだと話していた人もいるそうです。
どうでしょうか?ここまで聞くと「光秀=天海」という説もあながち間違いではないように思えませんか?
歴史の裏に隠された真実と言うのは必ずあると思います。そういった目線で歴史を見直してみると意外な発見が出来るかもしれませんね。

»コラム・エッセイのページへ戻る





ライター紹介

ラインディングが好きで色々な記事を書いています。
オカルト、歴史といった自分の得意分野で記事を書けるととても楽しく書けます。

アーティスト紹介

@sandragon965

いろんな敵とこっそり戦う画家
とにかく、今の状況を脱するためにリアリズムという作品を制作することにした。(画家をしております。個展の案内はメールで配信します。登録はこちらです!!)
»プロフィール»インスタグラム»twitter

ニュースレター登録

個展の案内をメールで配信しております。
詳しくはこちら
↓メールアドレスを入力してください